2023年01月29日
剣禅話⑪

【Ⅲ 維新覚書】
(朝廷に奉仕する事)
「私はあえて抗弁しようとは思っていない。謹んで神仏の光明にお任せし、千年の後に私を理解してくれる人が現れるのを待つことにする」
行ったことの評価は、即座に出る物は少ない。それが大事業になればなるほど正確な評価が固まるには時間がかかる。世に事を処する志のある者は、評価など微塵も意図せずに意思を貫徹するのではないかと思う。
(覚王院上人と論議之記)
「名分だけは正しくても、言うことがこれに応じてゆかなければ外国の侮りを防ぐ策は立たないものである」
拉致、北方領土、沖縄米軍基地、尖閣等の現在ある外交問題はまさしくこの状況ではないだろうか。外交における国家の度を過ぎた弱腰は問題の解決につながらないばかりか、かえってこじらせてしまう様な気がしてならない。
(剣禅話 終わり 次回からは『正法眼蔵随聞記』を読解してゆきます)
2023年01月27日
剣禅話⑩

(鉄巻之説:門生聞書)
「因果によって移り変わる世俗の事象、つまり有無の智は日々に増えているが、有無の妙智は日毎に失われていっている。そもそも世俗的な事象はどんどん変化していってしまうもので、信頼できるところは何一つない」
目に見えているような事象はそのほとんどが移り変わり消えてゆくものである。残らないものである。そのような信頼できないものに囚われずに、確固たる真実を見極めるために日々の修練がある。
「そもそも『無為とは何か』と言えば、動きがなく、しかも同時にすべてが動いているということである」
矛盾しているようだが、自然の在り様に任せて、空っぽになっていることではないか?静も動もなく、気配を断っている有様のように思う。
2023年01月26日
剣禅話⑨

(仏教之要旨)
「工夫を積んでゆくと、自分の存在意識が髑髏の内側からすーっと通り抜けてゆき、自分の本来の姿に突き当たる時がやってくる」
無心になって修練を積み続けると、このような境地に至るのかもしれない。禅とは自分の内面の深いところにある核を意識することなのであろう。
「(禅とは)自己存在の根元を見極めようとすることが主題である」
自己存在の根元とは、天命を指すのではないか。天命を自覚したら、最早迷うことはない。
「過去現在未来の三世を貫く活眼を開き、何物にも依拠せずにそれ自体で存立している主体ともいうべき物を摑まえよ。これこそが天真仏である」
不変の真理を見つけることが、天真仏を見つけるということのようである。
「卑劣とは妄想によって自分の主体を奪われ、自分の本性でない物を追い求めることである」
妄想により自分の主体を奪われるというのは、恐らく誘惑に負けている状態を指すのではないか。自らの本性をわきまえることが大切だと思う。
2023年01月25日
剣禅話⑧

(生死何(いず)れが重きか)
「ただ死を恐れてばかりいるというのは卑怯千万であるが、死を急ぐのも合点のゆかぬことである」
死というものを客観視出来る人物こそバランスの取れた人物像の条件であるようだ。
「生死のことに執着するような人物は、とても世の中の大事を一緒にやってゆけるような者ではない。生死に執着していたのでは大事業などできるわけがない」
大事業という、達成に必要な多くの条件がそろって初めて可能なものの前では、生死への執着は障害になるのだろう。だが、世の中の大多数は一般の市民であり、必ずしもこの通りの人物でなければならないわけではないだろうと思う。
(某 人傑と問答始末)
「人間、一生のうちにやれることなど多寡の知れたものだが、人間がこの世において(必ず)行うべき(または取り組むべき)仕事、というものがある。それに対してもったいつけるのは(ただの)口実に過ぎない」
与えられた最低限の責務を果たさない人生など、意味がない。責務から逃げ回るような人間にはなりたくないものだ。
「抱負が遠大に過ぎ、勝気な精神の者は俗世界から非難されるものだ」
抱負と勝気さとを表に出すから非難されるのであって、内に秘めておけば全く問題はないと思う。
2023年01月24日
剣禅話⑦

(心鍛錬磨之事)
「本当に肝が豪気である者とは、時と事に応じて縦横に変化する者を言う。決意してからでないと豪気になれない者は、決意しないうちはあれこれ思案を巡らせるものである」
言わんとしていることは、真の豪気な人物とは状況によって動揺することなく、自然にベストな対応が出来る冷静さ(天性に)を持っている、ということでは?腹を据えて初めて豪気になるようではまだまだなのだろう。
「肝を豪気にするには、思念を生と死の間に潜めてしまうことであり、生・死は一つのことに帰着すると知覚することである。そうなると世の中の事は一切の成り行きを自然のままに任せるようになってゆく。結果、恐れることは何もなく全ての執着から解き放たれる」
生に執着せず、死を必要以上に恐れず、という境地になれるなら確かに恐れることは何もなくなる。成り行きを自然のままに任せるということは、冷静に割り切って全てに納得できるということなので、執着の欲心から解放される結果となるのだろう。
「経験と鍛錬により肝を豪気にするやり方もある。自分が最も恐ろしいと思っている物に接近して狎(な)れてしまうのだ」
最も恐れている物への耐性・免疫が身についてしまえば、精神が逞しくなるのは道理である。
「(肝を豪気にするには)ただただ心を静めて工夫を凝らし、錬胆という、事の核心に出会う道があるだけである。ただただ励む、それ以外に道はない」
肝を豪気にしたい、ということに限らず、目的・目標を達成するためにはひたすら努力し続ける以外には道はないのだ。